風に乗って

  高木桂子 アジア文化会館勤務 

 今年の3月は、初旬に東京に案外な雪が降りました。雪国の人には申し訳ないけれど、降り積もった雪が辺りを呑み込んで音のない風景をかいま見せてくれるのは、私にとって極上のオアシスです。
 人がこの地球のどこに生を授かるか、私たちは選べません。地上に降り立った命は、誰もがその生を全うするのが望ましいことですが、なかなかそうはいきません。生まれた地域によって、人は随分と困難な歩みを強いられてしまいます。
 能天気な主婦だった私が、そんなことを考えるようになったのは、アジア文化会館で働く機会を得たことがきっかけでした。17年間の専業主婦から抜け出して、アジア文化会館でパートの職に就いて15年。そう、15年前の夏の朝、家族を送り出して一人の朝食を、新聞小説を読みながら楽しんでいました。いつもなら見たことのない求人広告なのに、その日、小説の挿絵の下の小さな求人募集に目が留まりました。
 「留学生の宿舎・受付・パート募集」(なにこれ?面白そう・・・。でも無理だわ、主人は朝遅いから8時からの仕事なんて出られない。下の子はまだ小学生だし・・・。)なんて調子で、その日はいつも通りバタバタと終わったのですが、夜、布団に入ってからその求人が気になって仕方ありませんでした。翌日だったか、翌々日だったか、朝、何も言わないで主人を見送った後、スナップ写真を物色しました。どの写真も家族と一緒で私一人のはありません。そんな中でどうにか顔を切り取って履歴書に使えそうな写真を選び、身支度を整えて外出しました。途中履歴書を買い、喫茶店に入りました。一人で喫茶店に入るなんて初めてでした。そこで履歴書を書き上げアジア文化会館に向かいました。
 こんなへっぴり腰から私はアジア文化会館とつながりました。アジア文化会館で文字通りアジアの留学生と接するようになって、私は初めて身近にアジアの外国人を知るようになりました。お恥ずかしいことですがそれまでの私にとって、外国および外国人とは西洋社会が大部分だったのです。
 受付の仕事に就き、留学生たちとつかの間ですが触れ合ううちに、私は懐かしい記憶を呼び起こされました。とうになくなってしまった子ども時代の親戚づきあいの光景です。10代から50代までの留学生や研究者の方々の心遣いは、国籍に関係なく、昭和20年30年代の我が家に流れていた空気と同じでした。やがて私は職場で見聞する事を通じて、現代史が理解できていないことに気づきました。たまたま書店で『閔妃暗殺』(角田房子著)を手にとり、夢中で読みました。なんにも私は知らなかったと思いながら。団塊一期生の私の歴史の勉強は明治維新で終わっていたのです。40歳を過ぎて出会った新しい世界のことを知りたくて、色々な本を読みましたが、私の頭の容量が小さくてよくわからないのが現状です。 2001年にアジア文化会館にいた韓国人留学生のウーさんが、「日韓アジア基金」を立ち上げたとき、日韓の人々の協力でアジアの子どもたちの未来に力を注ごうという理念に心から共感しました。私はすぐに会員になり、現在に至っています。
 偶然目に留まった求人広告に応募したことから、日韓アジア基金に出会いました。あの時、風が吹いたのかもしれません。本当にささやかですがアジアの小さな子どもたちの健やかな成長を応援したいと思っています。



  弱者と共に生きていくなかで

                          佐藤和之 佼正学園専任講師
 私は数回のカンパと禹さんの本を買っただけで、イベントにも一度しか参加したことがありません。それでも、なぜ日韓アジア基金を見守っているのかというと、スタッフの高橋君と代表の禹さんが私の友人だからです。もちろん今でも、彼らとの偶然の出会いに感謝しています。
 2001年、私の勤務校を会場にして、第1回東京・沖縄高校生TV平和意見交換会が開かれました。東京側高校生の中心となって企画運営したのは、当時、私の生徒だった高橋君です。実は韓国の高校生もTV参加の予定だったのですが、小泉首相の靖国神社参拝問題に韓国側の大人が激怒し、直前キャンセルと なりました。そこで釈明のため登場したのが、この高校を母校とする留学生・禹さんだったのです。また対照的に、最初は大人レベルで交渉が難航していた朝鮮高校は、高橋君が足を運んで訴えた結果、直前に参加OKとなり、会場へ駆けつけてくれました。
 このとき禹さんは、「頭の固い大人が文句を言うな」と憤慨し、日韓アジア基金設立の主旨をアピールしていました。その後、高橋君も大学へ進学し、ASYS(アジア・ユース・サミット)を発足させ、東京・沖縄・ソウルTV会議はもちろん、韓国や中国と相互訪問するなど、交流活動を継続発展させ ています。この二人が各々創設した組織に対し、互いに協力してきたことは周知の通りです。
 さて、私自身が韓国を意識し始めたのは、1980年の光州事件からです。この事件の衝撃もあって、後に私は社会科の教員となると同時に、韓国の社会や経済を研究したいと考えるようになりました。進学した大学院では、高校時代に光州民主化闘争に加わった留学生、韓国軍人、朝鮮総連の研究員らが学んでおり、彼らは今でも私の親友です。ただ、韓国や東アジアの研究は彼らにまかせた方がいいと思い、私自身はロシアないしユーラシアへと研究対象をシフトさせ ました。それで、現在までロシア経済の研究を続けると同時に、最近ではチェチェン難民学校への支援等にも関わっています。これらも、かつてモスクワ大学の寮で、元アフガンツィ(アフガン戦争からの帰還兵)やその親友のチェチェン人らと出会ったことが契機となっています。但し、彼らの方は後に消息不明となり、今では会いたくても会えません。
 ところで、ベトナム戦争を描いた韓国映画『ホワイト・バッジ』をご存知でしょうか。その中で、韓国兵がベトナム人を殺して耳を剥ぐシーンがあります が、これは豊臣秀吉時代の朝鮮出兵でできた耳塚を連想させます。そして1979年、今度はベトナム軍がカンボジアへ侵攻し、他方で中国軍はベトナムに侵攻する。こうしてアジアでも戦争の悲劇が繰り返されてきたのですが、犠牲は常により弱い国や階層に集中してきたように思います。この文脈で考えると、今 でも苦しむ最大の犠牲者は、長年戦場となったカンボジアの子供たちかも知れません。
 禹さんの表現を借りれば、母のような韓国と父のような日本が協力し、そのカンボジアの子供たちを育んでいるのが日韓アジア基金でしょう。その場合、父と母とが不仲では、子供の潜在能力を拡げてあげることはできません。つまり日−韓−カンボジアひいてはアジア全体の関係の中で、私たち自身も歴史の壁を 乗り越えられるかが、このグローバル化時代に試されているのだと思います。
 ちなみに、内戦下のチェチェンの子供は運よく命が助かったとしても戦争しか知りませんし、貧困にあるモルドバの子供は人身売買の標的となれば生涯親とも会えません。ですからアジア未来学校での経験はユーラシア諸国の社会問題に関わる私にとって、大いに参考となり勇気を与えてくれています。この点を含め、以上が日韓アジア基金を精神的に支援している理由です。


カンボジアの子どもとバンクラデシュの子どもたち

福島忠男 日本聖公会川越キリスト教会牧師 

日韓アジア基金の活動を通して、カンボジアの子どもたちの姿にふれますと、私のまぶたに彷彿と思い浮かぶ子どもたちがおります。それは、30数年前に出会ったバングラデシュの子どもたちです。
 30数年前、わたしの属します日本聖公会北関東教区と米国聖公会のペンシルバニ教区及びバングラデシュ教会、この三つの教区が姉妹関係を結び、共に祈り、共働していきましょうということになりました。それには、相互の情報を交換し、共に交わり知り合わねばなりません。当時は現代のように、まだインターネットも普及しておりませんで、バングラデシュとは、どういう国なのか、どういう生活をしているのか、何をどうやって協力したらよいのか、皆目分からない情報も少ない時代でした。わたしたちは、相手のことがまったく分かっていない事に気づき、共働しようとするなら、ま相手のことを知らなければならないと考え、バングラデシュを訪問いたしました。
 当時のバングラデシュは人口約9000万人で、その内92%は農村に住み、主要作物は米とジュートでした。しかも、農民の30%は耕す土地を持っておらず、また残りの30%はわずか40アール以下の土地を所有しているにすぎません。これらのことが貧困の原因であり、農業を営みながらも、村人の多くは十分に食べられないし、子どもは、栄養失調で5歳以下で死ぬ率が高いという状況でした。農業労働者が受け取る日当は、6タカ(80円)から12タカ(160円)が当時の相場で、米1キロが約4タカ(50円)でした。もし、首都ダッカの中華レストランで湯麺を一杯食べますと12タカで、一日の汗の結晶が吹っ飛んでしまいます。2000年国連統計によりますと、バングラデシュの一人あたりの国民所得(年間)は389ドル、日本の約90分ので、30年前と変わっていません。しかし、日韓アジア基金が支援し、活動しておりますカンボジの国民所得は、このバングラデシュよりもさらに低く、わずか261ドル、日本の約120分のにすぎないとは、驚きです。
 バングラデシュの平均寿命は46歳です。ですから大きくならないうちに両親を失う子供、孤児が沢山います。施設や学校に入れる子どもたちは、ごくごくわずかで、幸いであるといえるかもしれません。船やバスの発着場などにおりますと、スーと男の子(男の子だけ)がやってきて、手を出して物乞いをするか、小物を持ってきて買ってくれとせがみます。男系社会のバングラデシュでは、男の子が何よりの稼ぎ手であるのです。バングラデシュのキリスト者は全教派(カトリック、聖公会、長老派等)合わせて3500人に過ぎぎませんが、病院、孤児のための施設、学校、職業訓練など、特に子どもの教育、育成に力を入れた働きをしております。バングラデシュ北東部の田舎町ハルアガートのそれらの孤児施設の一つを訪れました。
 蛍が目の前をスーと飛び交う夕刻、私の歓迎会を開いてくれました。バーナーランプの光のもとで歌、ダンス、コミック劇、詩の朗読等、ことに北方民族ガローの少女たち民族衣装をけて一生懸命に踊り、歌うその姿に感激しました。たとえ貧しくとも、つぶらな瞳で純真に生きるこの子らに、平安がありますように祈らずにはおれませんでした。バングラデシュのこの子らと、カンボジの子らの姿が重ね合わせて見える思いがいたします。



 子どもたちの笑顔に支えられて
   
                                            松田明美 書店勤務 

たくさんの子どもたちの顔がある。一人一人の表情がよくわかる。ちょっとはにかんでる。笑ってる。緊張している。「写真を撮られるのって、どう?」「学校は楽しい?おもしろい?」「お家の人は元気かな?」写真の子どもたちに聞いている私がいる。
 アジア未来学校に通う子どもたちの顔写真が、カラーでポスターにたくさん並んでいる。この子どもたちに私たちの支援が届いているのだ。
 カンボジアに学校を建てるボランティア団体、NGO,NPOは日本だけでもたくさんあり、建てた学校の数も相当な数のようだ。
 日韓アジア基金は学校を、建てただけではない。運営はもちろん、授業にも直接携わり、子どもたちや取り巻く環境をサポートしている。私が日韓アジア基金を応援している理由のひとつがここにある。学校を建てっ放しにしていない。このことなのだ。現地のスタッフに全面的に任せられる日がくるまでしっかり基礎作りをしてきた。そして、子どもたち、家族、村、市の信頼を得てきた。
 これまでの活動の報告をたくさん見るにつけ、ひき続き、学ぶことに一所懸命な子どもたちの顔を見たくて応援していきたいと思う。
 話が前後になるが、もうひとつ応援している理由がある。それは、日韓アジア基金が作られたきっかけにある。
 禹さんが「日韓の壁」をなんとかしたいという強い思いで、日韓の学生たちとカンボジアの子どもたちの教育の手助けをしながら、その「壁」を越えていきたいと始めたことにある。共同作業に寄って、関係を育てていこうという考え方に共感するのだ。
 最近中国の留学生も賛同してくれている。仲間がふえていくことが力になり、子どもたちの笑顔が支えになる。地道な活動だが、たくさんの人たちに「よろしく」と言いたい。